3年目の正直と、35歳の現実
どうもKentです。 今年の自分に課した「月1冊の読書レビュー」。すでに1月分に取りかかれず、2月に突入しているが、そこを気にするのは野暮。35歳の社会人には、そのくらいの勢いで課題に取り組まなければ、何もできなくなってしまう。
妻には内緒だけれど、このブログも何も手を付けないまま、3年目のサーバー使用料金を払っている。そういった「人間らしさ」を、僕の強みにできたら。
10年前の「青年」だった私へ
なぜこの本を選んだのか。 初めて読んだのは、もう10年近く前になる。理工系の大学院で研究も進めず、サボりもせずにただ何にも熱心になれずに、くすぶっていた頃だ。当時は、本に登場する「青年」に自分を重ねすぎて、まともに内容をインプットできなかったのではないかと思う。
だが、今回の再読で実感した。10年以上の熟成期間を経て、僕の脳には「アドラー」の教えがしっかり刷り込まれていたのだ。 そもそも、学生時代から僕のバイブルは、アドラーの影響を大きく受けたデール・カーネギーのあの2冊なのだから、当然かもしれない。
「目標」という言葉への生理的違和感
『嫌われる勇気』を読み終えて、ずっと埃を被っていた古い感覚を思い出した。 「人生に目標は必要ない」 この一文が、今の私の生活にしっくりと馴染んでしまった。
私は、自発的に本を読み、英語を学び、筋トレで体型を管理する。これは誰かに命じられたわけでも、いつか何者かになるための「目標」があるわけでもない。ただの自己実現であり、そうあるべきだと思うからやっているだけだ。
一方、仕事の現場はどうか。 そこでは常に、半年や1年という短いタームで無理やりひねり出した「目標」を掲げさせられ、PDCAのループに放り込まれる。未達成なら、そのためのロジカルな言い訳を用意しなければならない。
正直に言えば、昔からこれが「気持ち悪くて」仕方がなかった。 技術者として、目の前の人が求めるものを、その瞬間のベストで提供する。その「今、ここ」の連続こそが正しい気がしていたからだ。
「他者貢献」という免罪符
しかし、社会はそれを許さない。 誰の役に立つのかも見えない目標を掲げなければ、給与すら満足にもらえない。そのシステムに順応しようとするうちに、私は「目的があることが普通だ」と思い込もうとしていた。
アドラーによれば、人生の意味は「他者貢献」にあるという。 それでは社会が成り立たないのか? 机上の数字をこねくり回す上司を見て、ふと思う。
もし、本当に「他者貢献」に人生の意味があるとすれば、会社が課す空虚な数字に意味を見出す必要はない。私が私の基準で100%の仕事をし、誰かの役に立っているという感覚があれば、それでいいはずだ。
自分の人生を「踊る」ために
自分の内側から湧き出る規律は信じられる。けれど、外側から降ってくる目標は、どこまでいっても他人事だ。
この違和感を抱えたまま、それでも私は「自分の人生を踊る」ように生きていく。 評価がどうあれ、自分の行動の価値を決めるのは、私自身でしかないのだから。
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